過去を手放す
先日見た映画がかなり自分の心情に響いたので、喪失感や手放しについて感じたことを書きたいなと思います。
手放せないのは「その人」なのか「その人との過ごした感情」なのか?
先日「九龍ジェネリックロマンス」という映画を観てきました!
映画の簡単なあらすじはというと、香港の今はない「九龍」という街の不動産屋さんに勤める男性と女性の恋愛のお話しですが、そこには「ジェネリック」とつくだけあって、「オリジナル」と「後発品」という意味も含まれていきます。
元々香港映画にハマっていた時期があった私はあのなんとも蒸し暑い香港の熱気みたいなものを感じる映画って好きなんですよね。人のエネルギッシュな感じとか、ごちゃごちゃする街とか、そこでいろんな人が人の人生に色濃く関わってくるところとかを、実際やられるとすごく苦手なくせに、スクリーン越しに見るのは好きなんだと思います。
そんなわけで、十分今の日本もスクリーン以上に蒸し暑いんですが観てきました!
もうね!!単純に主役のお二人の演技がすごくて引き込まれたっていうのはあるんですけど!!(ただのファン)
それ以上に水上さんが演じている男性のリアルな泣き姿や、どちらにも進めない心情になる理由とか、今の自分と重なる点が多すぎてすごく映画館で泣きました。
※ここからはネタバレを含んで私の心情を書いていくので、映画を観たいよって方はぜひ観てからお読みください。
始まらなければ終わりはない。
九龍で職場で喧嘩しながらも仲のいい男女。口ではあーだこーだ言いながらも、女性はこの男性が好きだということに気づきます。
そして男性にもそうあってほしいと告白めいたことを伝えますが、男性からははぐらかされてしまうんです。
でも本当は彼女はジェネリックであり、男性の亡くなった婚約者がオリジナルなんですね。
しかしそのオリジナルとは別の人格を持ち、自我を持ち始めた女性に対して男性は葛藤を抱きます。
彼女が好きなのか、それとも婚約者と同じ体を持つから好きなのか。
そもそもこの九龍の街も彼が彼女と過ごした幸せだった場所であり、彼女が亡くなる前の夏から季節も移りません。
季節が変わってしまったら、彼女は亡くなってしまうから。
劇中に「始まりもしなければ終わりも来ない」というセリフがあります。
私はリアルに同じことを人に言ったこともあるので、「あー。わかるー。」とかなり共感したんですが、今が楽しいからこそ、これより親密になって仕舞えばいつか相手を失うんじゃないか?もちろんそれは自分の気持ちが離れる方も含め、この楽しい時間が消えていくことへの不安感だったりします。
男性は亡くなった婚約者が残した言葉に縛られるように、「八」を見かければ手で触れ、彼女が好きだったランチをその頃と同じように毎日食べ、彼女が自分にやったことを今は女性に対して同じようにする。
そういう何気ない「あの頃の毎日」の中で進みもしないし、終わりも来ない時間に閉じこもっていたかった。
その気持ちは今の私にもすごく当てはまるなぁって感じていたんです。
毎日ランチを食べる男性を見て、私は「いやー、流石に毎日は無理だろ」って思ったりしてたんですが、私もふと「今日何食べようかなぁ」って思ったり、久しぶりに材料が揃っているから「〇〇を作ろう!」と思い立ったものが夫の好きだったものだったりするときはかなりの頻度であるんです。
そうやって「あの頃の2人」から抜け出せずにいる。
途中、映画の中で「九龍」から出るかどうかを何度か試されるシーンがあります。
出たらどうなるのか。女性はその中でしか存在しないものであるので、消えるだろうということを示唆するシーンがあったり、男性は「いつでも逃げてきていいけど逃げっぱなしになるな」と言われるようなことが起こります。
でも男性が行く宛がないと答える理由も私なら「出た先のこれからの未来に希望を見出せないから」ではないか?と思ったんです。未来に希望が見出せないから意欲が湧かない。出ていきたいと思えないし、出てなんになるの?という失望でしかない。それなら、過去の「あの頃」に閉じこもってしまいたい。
そんな気持ちを抱きながら映画を見ました。
婚約者を亡くして3年以上経つ現実から離れて彼はその仮想空間の中で「あの頃の毎日」を過ごしていっていたのに、ある時ジェネリックであるはずの彼女が自我を持ってしまった。
相手が好きなのか、彼女の面影が好きなのか。
それって「その人」への思いが残っているのか、「あの頃のあの人との間に感じたこと」への思いが残っているのか、最初は自分でもわからないって人多いんじゃないかなって思うんです。
私はこの映画をみて、やっと夫が亡くなってしまった現実を受け入れ始めたけど、夫との間に感じた信頼や安心感を手放せずにいるんだなと感じました。
こう伝えたら、あの人ならこう返してくるだろう。
そんないつもの何気ないやりとりだって安心感の1つだったはずです。
でも、未来には新しい人との出会いの中で、また一から安心感を作り上げていくことに向き合う必要があり、その中で「あの頃感じた安心感」に逃げ込みたくなることもある。
そんな気持ちに共感して私はめちゃくちゃこの映画で泣いたんです。
自分の未来をまだ描くことができなくても自分の気持ちに寄り添って生きる
この映画にめちゃくちゃ感情移入して、久しぶりに放心状態になった私は、気持ちをシェアしたくて友人に連絡を取りました。
その友人とのやり取りの中で改めてこう思うに至ったんです。
「人ってそんなに器用じゃない。誰かを思って喧嘩したり傷つけたりしないために、自分の感情を自分で扱う必要があると分かっていても、できない自分がいて当たり前だし器用に生きれないことを責める必要もない。でもその感情に浸るんじゃなくて、そこから出ていく勇気はやっぱり必要だ。」
恋愛のように親密さを感じる関係性であれば、特に相手に振り回される自分を、頭では「よくないことだ」と思うこともあると思うし、特に2人の仲が深まってまもないころであれば、相手の言葉や態度に一喜一憂したり、逆に相手に自分のニーズをぶつけて自分を嫌いになりそうになったり。
感情が忙しなくて、そのこと自体にすら「うんざりする。」と感じることすらあると思うのです。
でもそれもまた「あの頃」と思うような時間になるかもしれない。それくらい大切な「今」なんですよね。
私も今。次はどんなパートナーシップを描きたいか?と問われたら書けないかもしれないし、書いたものにさえ、正直、それを心から望んでいるものかどうかわからないって思うこともあります。
むしろ白紙になってしまったからこそ、自分の感情で確かめることしかないのかもしれません。
「こんな2人になりたい!」は、わからなくても「今、嬉しい。幸せを感じる。」というのはできるから。その積み重ねになるのかもしれません。
変わっていい。
この映画の中でもこのセリフは出てくるんです。
「変わっていいんだよ。」
これも、「あの頃」から抜け出す時、自分の心を引き留めるものの1つだよなーって思いました。
あの頃から自分だけはまだ変わり続ける世界の中にいる。
あの頃のあの人はあの時のまま、自分の中では変わらないあの人のままなのに、自分だけはいろんな経験を通して変化していく。
そのことが相手への申し訳なさであったり、相手を置いてくような気持ちになる。
相手はあの頃で、何も変わらずそこにいるのに、と感じてしまう。
でも「変わっていい。」という許可を自分で出せるまで、やっぱり時間がかかる人もいると思うんです。変わることで相手とのあの頃を完全に手放すような気持ちになってしまうから。
でも、「あの頃」の自分達もまた、変化の中にいたし、「あの頃」の自分達が当たり前に手放していった過去があってもなくならなかったように、きっと今手放してもなくなりはしないんですよね。
手放すことを焦らない。
苦しい時間が長い分、早く手放してしまいたいと思うことは多いけれど、実際手放しをしたい!と思っている間は手放しできていないということ。
かつて、私はよく先輩カウンセラーに「手放しできたかどうか?」を題材に話をしていた時、「手放せたかどうかを気にしているうちは手放しはできていない。忘れてた!ってなるくらいになったら手放しできてるかもね」なんて言われたりしていました。
そのことを見つめている間は、手放しにはなっていないし、忘れようという努力をしている時ももちろんそう。逆に「思い出したくもない」というのも実は手放しではないんです。
手放しできている状態とは思い出してもいいし、思い出さなくてもいいと思えるような距離感になっていること。
そういう意味では私は当分手放しは難しいんだろうなぁとは思います。でもそれも焦ったところで心の問題は進むことはないというのも、嫌というほど味わっているので、今は「こうありたいという未来を描いていく力はまだないけれど、これが好き、これは嫌という自分の感じる力を作って一歩先の未来を選んでいく」っていう地道な未来を描いていくのがいいのかなと思っています。
以前の私なら時間がかかりすぎて絶対やりたくないし、他の手段はないですか?って聞いてしまいそうだったけれど、どこ探し回ってもそういう「退屈で無駄に感じる時間」が必要な時も人生にはあるのかもしれないなと思うようになりました。今も焦りはする。でも、退屈にまた目を戻す。
そんな時間のうちに、気づけば少し先の未来を描いていくようになるのかもしれないなと思います。