【ココロノマルシェ】1人で過ごせるようにするには
ココロノマルシェに寄せられたご相談
こんにちは。
私は数年前に妻子ある方と不倫関係になり、その方は離婚にまで発展しました。その方と3年ほどお付き合いしましたが、彼の行動への不信感と、不倫への罪悪感、自分への嫌悪感、将来の不透明さから関係を解消しました。
その後は、家族とも友達とも縁を切り誰とも一緒にならずに1人で永遠に過ごそうと思っていました。しかし、新しい職場や新しいコミュニティに入る度に「私はこの人たちと一緒にいるのはよくないことでは」「自分はそういうつもりでなくとも、前のように既婚の男の人からそういう目で見られたらどうしよう」「私と話すと自分の穢れのようなものが周りに影響して迷惑がかかるのでは」と毎日が不安です。なので、当たり障りのないキャラを演じて踏み込まれないようにしています。自意識過剰であるのは承知ですが、どうすればこの意識を無くすことができますか?
またどうしても温かい家庭に憧れを抱いてしまいます。自分で子供を抱いてみたいとも思ってしまいます。不倫したのに。
私は誰かと幸せになれるなんて思っていないのにパートナーが欲しいなど高望みをしてしまいます。どうすれば高望みをせず1人で生きていけるようになるでしょうか。私の存在があるせいで誰も不幸にしたくないのです。
りりんさん
自分では「悪いことだ」と思っていても、それをするだけの理由がそこにあったはずです。
姐さんカウンセラーの根本 ゆかです。女帝マインドから見た回答をお話ししております。
アンダーグラウンドとも言われる部分について、やってしまう自分を責めてしまうことがある。あんなことをした自分は罰されるべきだ、という心を「罪悪感」と言ったります。
罪悪感が強いと、「自分と関わる人が不幸になってしまう。なぜなら自分は罪深い人だから」という気持ちになるのですが、カウンセリングの視点ではそう思ってしまう理由があなたの中にあったのでは?とみます。
自分が罪を犯した人のように感じてしまうほど、あなた自身が傷ついてしまった出来事はなんだったのでしょうか?
ただ自分を責めるためにこれからの時間を使うのはやめにしませんか?あなたの心にあなた自身で寄り添えるようになったら、また違った未来も見えてくるのではないでしょうか?
罪ってなんでしょう?
りりんさんが不倫をする前。その前から、自分についてどんな風に感じていらっしゃったんでしょうか?
りりんさんは今回の不倫のことで相手の家庭を壊してしまったと感じておられるのかもしれませんね。自分への嫌悪感は他に、どんなところからそう感じてしまったのでしょう?
過去にりりんさんが「申し訳なかった」と思うこと、もしくは「自分のせいだ」と強く感じてしまった出来事があったのかもしれません。そのあたりは今、お聞きすることができないので、カウンセリングに来られるとしたら、その辺りをお聞きすると思います。
あなたがどうしてそんな風に自分を責め始めてしまったのか。
そこについてお話をゆっくりとでもできていくと、りりんさんが考える「罪」ってなんなのか?が見えてくるのかなと思います。
「才能を自覚する」と「自意識過剰」ってどう違う?
自分がモテる。
それを自覚していると、「この人にモテるのはちょっと困るな」と思うこともありますよね。自分の好きなタイプではない場合もそうかもしれないし、苦手な人も該当するかもしれません。またはハマってしまいそうだから困るって方もいらっしゃいますよね。
私はそれ自体、悪いことだと思いません。自分が自分の才能を自覚することは、むしろ積極的に取り組んでもいいのでは?とも思います。
才能というとなんとなく「すごいもの」って思ってしまうのですが、「個性」って言い換えてみるとどう感じますか?
モテるって言葉も、「若い男性に」なのか、「子供に」なのか、「動物に」なのかによっても、イメージって変わりますよね。子供にモテるっていうのだって個性だし、才能だと思うし、猫にモテるって人もいます。
モテるって悪いことでもないと思うです。その対象の人や動物に対して、魅力的と感じる要素がある、ということですよね。才能を自覚していなければ、「猫がすごいよってくる!!!」ってイライラする人もいるかもしれません。「なんか子供にすごい好かれるんだけど・・・」と困惑するかもしれません。
だから、「あぁ私はこういうタイプにウケがいいんだな。」って自覚って大切だと思うんです。自覚するから「使うか使わないか」の選択ができるわけです。猫が好きなら使えばいいし、苦手なら使わなければいいんです。ただそれだけのことだと思うんです。
でも、きっとりりんさんはこれで「あぁそうか!」って思えませんよね笑。
それは「モテる」っていうことで自分を責めよう、罰を与えようとしているんだと思うんです。だからモテるっていう意識を無くしても、きっと別のことでご自身を責めてしまうと思います。
才能を自覚するってことを自意識過剰って言葉に変えることで、自分にどんな気持ちを感じさせようとしているのか?を見つめていないと、この二つの言葉の使い分けに気がつかないと思います。
あなたが一人になることで、誰が幸せになるんでしょう?
罰を与えたい。
その気持ちに囚われている限り、終わりはないし、罰を与えれば与えるほど、光である希望や渇望感はより鮮明になるのではないでしょうか?
りりんさんが罰を与えなくては、と思う気持ちと同じくらい「もう許されたい」と感じているのではないでしょうか?
本当は「どれだけやれば許されるのだろう」って感じているのではないでしょうか?
もっと自分の気持ちに素直になってみてもいいのではないでしょうか?
本当に言いたいことはなんなのか。
本当の自分が誰かに聞いてほしい声はどんな気持ちなのか。それをまずは誰かに話してみませんか?
苦しい、誰かに甘えたい、本当はもっと好きな人と一緒にいたい。
そんな気持ちが溢れるなら、誰かに聞いてもらってもいいのではないでしょうか?
カウンセリングはそういう気持ちを話せる場所としてあるものだと思っています。罰を与えるだけでは、本当は罰ではないんです。愛を信頼する方がきっとその何倍も難しく、困難に感じると思います。愛は素晴らしいけれど、それほどまでに受け取るために苦労してしまう。どれほど愛を受け取るだけでいいとわかっていても、受け取ることができずに悩みたくなる。実はそちらの方が自分に対して何度も試され、何度も試練のように感じることが起こるものです。
本当にこんな自分が嫌だ!と思うなら、むしろ愛を信じてみる方に向かってみませんか?
私のカウンセリングの師匠である方は「罪悪感の裏は愛」と言っておられますが、罪悪感が大きい方ほど、その愛もまた大きく深い!
そして愛は私たちが繋がりたいものの一つであるにもかかわらず、なかなかに困難を感じます。だからこそ、愛を受け取るってことって一生かけて何度も何度もやっていくことだとも私は思っています。
罪悪感で苦しむより、愛を受け取るために苦しむ方が実は何倍も苦しかったなと、私自身の経験を振り返っても思います。ただ、受け取れた時の大きな恩恵もまた愛にはあると思っています。責めるのではなく愛を選択できますように。