【ココロノマルシェ】病気に対する価値観の違いについて
ココロノマルシェに寄せられたご相談
いつもお世話になっています。
私は一年半ほど、感染者の後遺症と呼ばれる症状を持っています。
たくさん患者さんがいて、それぞれに違う症状があり、これ、と言った明確な原因や治療方がない中、沢山の人が自分なりの治療方を模索しています。
私は以前から、自分の症状を心理面でのアプローチで見ていく、いわゆる根本先生的な笑?やり方が自分に合っており、カウンセリングや内観を通して身体の緊張が解けたこともあり、症状がかなりよくなりました。
で、そうした病気を自身の心理面から見ていく考え方は、この病気がウイルス性のものであることもあり、患者仲間からはやはり理解されずらく、私もそれがわかっているので、sns等では発言してきませんでした。
それにより私には闘病仲間と呼べるひとがいませんでした。
それが先日、同じく病気仲間で研究者でもある方がたまたま開いてくれたラジオにて、その方が心理面からのアプローチも否定しない考えを発信されていたことから、思わず「私も!」と共感し、その方とラジオで盛り上がったことから、私のアカウントがリスナーさんから注文されてしまい、案の定、私の発信内容(心理面から病気を考えるスタイル)に「グサグサ刺さりました。泣きそうです涙」というようなコメントをもらってしまいました。。
こうなるだろうなぁ、ということはうすうすわかっていたのに、自分の考え方だけが正解ではないことはわかっていたのに、それを受けて、ズドーンと落ち込む自分がいます。
私は以前にもよく、自分の考えを発信したことにより、「傷つきました」と言われることがあり、そうした発言から自分を守る為にも表現の仕方には気をつけていたんですが、、そもそもなんでラジオに出てしまったんだろう?というのと、
私はどうしてこんなに落ち込んでいるのだろう?というモヤモヤが止まらず、病気の治療における価値観の受け入れ方や、その他何か気づくことなどがあれば、ぜひお助け願いたいです。。
何か言われても傷つく人と傷つかない人がいる。
姐さんカウンセラーの根本 ゆかです。女帝マインドから見た回答をお話ししております。
まいさん、ご相談ありがとうございます。
治療法の確立していない後遺症について、いろんな方が正解を求めてその苦しい胸の内を秘めていらっしゃるんだろうと思います。
そんな中、まいさんは心理的アプローチに出会って、症状の改善が見られたことは本当に喜ばしいことだと思います。そしてそれが「すべての正解だ!」と言わず、いろんな人がいていろんな価値観を持っているということを理解されていることもまた、素晴らしいことだなと思って相談を読ませていただきました。
その中で「自分の発信により傷つく人が出てきた」ということに心が痛むというのは、当然と言えば当然だと思うんです。
みんながこれで治るわけではないにしても、自分が少しでも改善した方法について誰かのためになるかもしれない。そんな思いで発信した内容に「グサグサきた」と言われたことを、「傷つけてしまった」ととってしまうと、自分の発信のせいで相手を傷つけたのではないか?と思うのも無理ないのかもしれません。
ただ、私もかつて社内で「ぐさっとくる」とよく言われていた言葉を使うタイプではあったのですが「傷つけた!」と思わなくなっていった経緯があるんです。
当初はまいさんと同じように「良かれと思って伝えたのに・・・」と思っていたけれど、なぜ私は途中からそのことに私自身が傷付かなくなったのかについて、体験を踏まえながらお伝えさせてくださいね。
一つは、明確な線引きをしているということ。
自分と同じように苦しむ人を救いたいという気持ちはとても素敵だし、私たちはそういう誰かのためにしてあげたいことってたくさんあります。中でも自分が苦しんだ経験を持つことほど、同じように苦しまないですむ方法があれば伝えてあげたい、そんな風に思うこともありますよね。
私はかつて20年以上会社印をしていた中で、元々ポンコツ社員から色々経験したことを後輩社員に伝えたいとあれこれ世話を焼いていた時期がありました。
こうしたらいいよ。こういう時はこんな風にしたら大丈夫だよ。
そんな言葉も人によってはきつく聞こえるし、人によっては要領良くいいところだけ掬い取って自分のことにした後は後は知らんぷり、そんな人もたくさん見てきました。
そんなことを繰り返すたびに「自分がやっていることに意味があるんだろうか?」と思ったり、「どうしてこの気持ちが届かないんだろう。私なら教えてもらったら嬉しいのに」と苦々しく思ったりもしました。
そのとき相手に対して恨むような気持ちを持ったこともありました。わからない相手のせいにしたくなったんです。
でも私は根っからの世話焼きなので、新しく困っている人を見かけてしまうとついついまた「ここはこうしたらいいよ」と言わずにはいられなくなったんですね。
そんなことを繰り返すうちに、自分もどんどん疲弊して「いっそ世話なんて焼かずに勝手にやればいい」と突き放す考え方を持つこともありました。
でもこれらは「自分の思いが届かないことの痛み」「自分の気持ちを受け取ってもらえない悲しみ」「自分が受け取りやすい形での感謝の要求」であることが見えてくると、私はある一つの方法を見直すことにしたんです。
それが自分と相手の線引きを改めて見直すということ。
この線引きを心理学では「アカウンタビリティー」とも言われるのですが、私はここがすごく曖昧だったんですね。
相手のことを思うあまりに自分の痛みを相手に投影し、昔の自分を相手に重ねてその自分を救いたいと行動することによって、自分と相手の境界線が曖昧になり、その結果「私ならこんな風に感謝するのに」「私ならこんなことを教えてもらったら嬉しいのに」と自分の反応を相手に期待してしまっていたんです。
心理学でいうところのこれは「与える」という行為ではなく「取引」になってしまっていることに気が付かなかったのですが、与えるためには自分と相手の線引きを区別した上で、「与えたものは相手のもの」と自分は与えるまでが自分の行為であり、受け取るのかそれをどんな風に表すのかなど、相手側の反応や行動については相手のものと区別すること。
それを気を付けていくことで、「私は相手がどうやっても構わないから苦しむくらいなら与えたい」そう思えるか?という自問を繰り返すことになります。
そうすることで「与える」ということにコミット(決断)していくことができ、自分で決めたことだから「これは私の手を離れたら相手のもの」という区別をつけていくことができました。
なので、その後の相手がどんな風に受け取るかは相手の世界なので、「ぐさっときた」と言われても、よほど私が雑に何かをしたわけではない限りは「それはあなたの世界のこと」と区別するようになり、必要以上に傷つかないことが増えていきました。
自分もまた傷つくという理由を持っていることを認識する。
このアカウンタビリティーという区別についてですが、相手に丸投げしているわけではありません。この区別の根底には
- 私の世界で起こることに対してベストを尽くしていない
- この問題を解決するには私の力が不足している
つまり、究極なまでの自分軸なんですよね。
なので、自分についても「ベストを尽くしたか?」がまいさんでいうところの伝え方は十分だったか?と振り返っていらっしゃる部分だと思いますし、もしかするとモヤモヤの部分はこの2つ目である「この問題を解決することの力不足」についてのやり切れなさなのかもしれません。
ではこの問題への力不足ってなんなんでしょう?
二つ目は、言葉の定義を見直す
まいさんが「私が心理アプローチでこの後遺症を治すこと」と思っていると、その研究などになるかもしれませんし、それを結果的にライフワークにするということももちろんないことはないと思いますが、私はこういう時にまず「そもそもそこに問題ってあるの?」という視点で見ることもあるんです。
「グサグサ刺さりました。泣きそうです」
この言葉も実際はもっと悲壮感漂う表現だったかもしれませんし、前後の文脈やラジオでの流れにもよるので、一概にも言えないのですが、自分の発信について「ショックを受けた」という意味合いなんだろうと思います。
ただそのショックって、いけないことなんでしょうか?
刺さった、ということは、おそらくその方の中でも思い当たる節があってそれを言い当てられた、もしくは見ないようにしていた部分を明らかにされたような時に「グサっときた」なんて言ったりしますよね。
そして刺さった側の人ってそこからあれこれ自分のことを色々考え始めるんだと思うんです。
いよいよ年貢の納め時というのを感じて腹をくくるきっかけにする人、
隠していたのにあきらかにしやがって!とこちらに敵意を向ける人、
いやあの人はあぁ言ったけど他の解釈や他の方法があるしとまた見ないことにしようとする人、
その決断は先ほどお話しした通り、相手の判断、相手の世界のお話なんですよね。なので、こちらがどうこうすることはできないものだと思います。
ただ、この中で「敵意を向ける」という人については自分を守ることや、誤解であればそれをとく事なども必要となりますが、それはその向き合うことになってからの話でいいと思います。
私は、グサグサ刺さったという言葉だけでは「その後の展開」については自由だと思うんです。
むしろそこからどんな風に自分を向けていくかは、相手を信頼していくことで、受け取った人もいずれ私の伝えたい真意が伝わるはずだ、と信頼できれば、まいさんが傷つく要素ってないと思うんですね。確かに難しい。信頼していくというのが身近な人でも難しいのに、リスナーさんという関わりだけでは難しいと思うかもしれません。
でも、同じ後遺症というものに苦しみ、どうにかしたいともがいている相手であることは一緒なはずです。
かつての自分が自分にとって最良の方法に出会ったように、その人にとっての最良に出会うことを信頼してあげることってできると思います。
もしまだモヤモヤするな。。と思うなら、自分の過去の痛みに目を向けてみましょう。
ここまでは「物事の新しい捉え方」を主にお伝えしてきました。
アカウンタビリティーを使った自分軸の立て直し方や、相手への信頼を持つというのはなかなか高度な部分ではあるものの、きっとまいさんなら向かって行けるのではないか?とも思います。
しかし今現在のまいさんがこれらを読んでいて、「まだモヤモヤするんだよね。」と感じているとしたら「グサっと刺さった」という言葉ではなく、誰かの役に立ちたかったのに傷つけてしまった過去について目を向けてみてもいいかもしれません。
傷つくということは今起きたことに傷つくことではなく、過去の痛みを呼び起こすために傷つくという仕組みがあるんです。
なので、新しい捉え方を試しつつ、過去の「誰との間にある痛みが今のこの出来事に結びついたのか?」をみていくのもいいかもしれません。
その際はカウンセリングを使いながら安全に行ってくださいね。
そこまで情熱を持って発信されていること自体は素晴らしいことだと思います。その情熱を絶やすことなく、たくさんの方のお役に立てるといいですよね!応援しております。