【ココロノマルシェ】娘をバカにする父親の心理について
ココロノマルシェに寄せられたご相談
私は30代、父は60代です。
父は定年退職後、紹介された仕事をやめたりアルバイトを始めては辞めたり、現在は働いていません。
父は時々遠方にある親戚宅に行くので、不在の時は正直ほっとします。
私は家族の中で一番年下であるせいか、子供の頃から父にバカにされていました。
たまに持ち上げてきたかと思えば、落とされるといったところです。
私が中学生の頃、父の職場が変わってからはつらく当たられ、「お前は何も考えていない」と言われていました。
当時の私は部活に力を入れていた一方、学校でいじめに近いことをされたり、肌が荒れまくったりと心身ともに不調続きでした。
私が学生最後の年には「お前だけ稼いでいない」と言われ、現在家族で稼いでいないのは彼だけなのですが私をバカにしてきます。
かつて私は一人暮らしをしていたのですが、今は諸事情により実家で暮らしています。
父はこの調子なので頃合いを見て、再び家を出るつもりです。
育ててくれたことについて親に感謝しています。しかし子供の頃から現在までもバカにされることは解せないです。
私は親が求める基準には適していなかったと思います。
それでも頑張ったことが周りに認めてもらえなかったり、親に言えないことも乗り越えてきました。
今は心理学に関心を持っているので、父の心理について知りたく相談いたしました。
ご回答いただけましたら幸いです。
よろしくお願いします。
みいさん
親子とはいえ、成人した大人同士の関係。そこから娘としての自分を与えていく。
姐さんカウンセラーの根本 ゆかです。女帝マインドから見た回答をお話ししております。
親に馬鹿にされたと感じる言い方に傷ついたり悲しくなったりしますが、そんな時同じくらい「自分が親の期待に答えられないせいだ」とも感じてしまいます。
でも30代のみいさんはもう一つの視点を持つという選択肢もあるんです。それは「大人として親を一人の人として対等に扱うこと」。
これには「娘だから与えられる、期待に応える」というところから抜け出して、「自分と父親であるこの男性との関係性」というものを見ていきます。成人した30代の女性と60代の男性としての関係性で相手を見ていくということになるのですが、その先にはまた改めて「娘としての自分を与えていく」というプロセスが待っています。
娘としてのポジションにいると親にも期待する。
娘としては「もっと優しい言い方してくれればいいのに。」「何であえてそんな神経逆撫でするような言い方するわけ?普通に言ってよ!!」と言いたくなると思うのですが、それは「私は娘なんだから」という気持ちがどこかにあるのではないでしょうか?
少しきついお話になりますが、娘ポジションという「親に庇護される」というポジションにいると守ってくれる対象の親を自分より強い人、優れている人、大きな人、と自分の位置より上に置いた状態になります。
なので、見上げるような形になっているんですね。あなたの方がすごいんだからもっとこうしてよ!あぁしてよ!と言いたくなる。そこには「だって私はあなたほどできるわけじゃないんだから」という気持ちが隠れています。
- 親なんだから。
- もっとしっかりしてよ。
- もっと上手に愛してよ。
- もっと私を喜ばせてよ。
というような、依存的な気持ちが出やすくなります。
そんな時、自分の学校生活でも色々嫌なことがあれば親ならわかって欲しい、安全な場所を提供してほしい、だって親なんだものという思いが出てきてしまうのも仕方ないですし、家族の中で一番下だったということは「周りに自分よりあれこれできる人がたくさんいる」という気持ちが生まれやすいので、自分はできることが少ないと自信を持ちづらい部分もあります。
なので、より「私ができないんだから」と相手にあれこれ求める気持ちが出てきてしまうのですが、それは幼い頃のお話なんですよね。
今のみいさんは30代。成人してあの頃の兄弟や親がやっていたことも同じようにできることがたくさんあるはずです。そして末っ子ということで、甘えたりお願いすることがすんなりできていて実は自分は他の人に比べて、他人の協力をすんなりと得やすいと感じている部分もあるかもしれません。それはきっとみいさんの才能でもあるんですが、そんな風に「実は自分だけの才能」もたくさんお持ちのはずなんです。
自分の欲しい形の愛情ではないかもしれない父親の愛情に目を向けてみましょう。
親子とはいえ、別の人間なので、全てを共有するわけではありませんよね。
愛情の示し方、愛情の受け取り方、愛情を伝えるタイミング。
これらについては本当に個性がよく出る部分なので、親子や兄弟だからといって近いとも限りません。
でも子供の頃は「こうしてほしい」という自分の愛され方でしか受け取れないので、親が自分の欲しい形での愛情表現をしていない場合、「愛されていないんだ」と誤解してしまうことがあります。
自分の中にない愛の形を認識できない、という感覚なので、「どこにあるの?何が?どれ?」という感じで全く視界に入らないので、「馬鹿にする」「自分に辛くあたってくる」「お前だけ稼いでいない」という言葉をそのまま鵜呑みにしてしまうのも無理ないのかもしれません。
ただ、心理学には面白い言葉があるんです。
「誰かを愛するとき、自分が愛された愛し方でしか愛せない。」
私はこれを見るたびに「愛もこうして教えてもらわないと伝え方を知ることができないんだな」って感じたのですが、これをみいさんの父親に当ててみることもできるんですよね。
父親がまだ幼かった頃。きっと祖父母の代はまだ戦後の日本の立て直しの最中で忙しかったり、今のように家電があらゆるサポートをしてくれる時代ではないので、暮らす事の労力も今よりきっと肉体的に負担も大きかった事でしょう。
その上で、高度成長期に重なり今では考えられないような働き方やパワハラのような圧力の中で働く人も多かったと思います。その中でお給料も増えたり、万博などの世の中の変化もあり、そんな中、みいさんの父親は育ってきたのかもしれません。
そして父親自身が働く頃にはバブルの好景気から、氷河期、いろんな時代の変化に富んだ数十年を働きながら感じていた事でしょう。
ジェンダーの問題についても今よりはるかに色濃くあり、「男なんだから」「女のくせに」と当たり前に言われていた時代を生き抜いてきた人たちが現在の50代60代の方々ではないでしょうか?
そんな中、みいさんの父親はどんな風に両親から愛を教わったんでしょうか?
会社の先輩からどんな愛情表現を受けたんでしょうか?
世間の中の「男なんだから」という言葉にどんな影響を受けてきたんでしょうか?
そんな中、母親との結婚、子供たちが生まれるという喜びの表現をどうすればいいと感じたんでしょうか?
これはきっと私より、みいさんが父親とお話をしていたり、祖父母の関係性をみていて感じることの方がたくさんおありではないでしょうか?
私も末っ子で父は周りの世代よりはるかに年上で、その世代差の愛情表現にうんざりした時期がありました。
私の父は「構うこと」が愛情表現だったんです。でも当時の私は「私の好きなタイミングで構ってほしい」と思っていたので、「縛られている」と感じていました。
でもこんな風に自分の知らない時代を生きた父を改めて、今の大人になった私が振り返ると、すごい時代を生きた人なんだなと今は父を尊敬しています。
それくらい親子であっても愛情の示し方、感じ方、伝えるタイミングって違うものだし、それを誤解してしまうことはあることなんです。
自分は親の期待に応えられなかった、だから愛されないは本当なの?
親の望む基準に満たなかったということは「愛されていない理由」に果たしてなるのでしょうか?
親の期待と親の願いは別だと私は考えています。
- こんな子になってほしい。
これはきっと親の「期待」ですよね。私自身は子供がいないのですが、部下を持っていた時ですら、「こんな風になってほしい」と部下を育てたいと感じたことがありました。これは部下への期待から。でもこれは私の場合「願い」ではないんです。
- 今を楽しく過ごしてほしい。
これは私の願い。共通してわかりやすい言葉にしたので、部下に対しては「仕事を好きになってほしい」「楽しく働いてほしい」という感じで考えていました。楽しく働くにはその前にスキルを持つ必要があると思えば、厳しく指導もするし、礼儀についても細かく言います。
このあたりは育児にも少し共通してくると思うのですが、「いづれ相手が自分の元を離れて、独り立ちした時に苦労しない方法を教えてあげたい」というのが願いなんです。
だからそのために「ここはもっと気を配ってやらなきゃだめだよ!」とか「もっと早くレスポンスを返さないと印象が悪いよ」とかあれこれ口やかましくなってしまうのですが、それって親子だとよりそう感じるのではないでしょうか?
末っ子であれば、つい「いつまでも小さい子」とみられがち。先日私は母と姉と食事したのですが、もう40も半ばに近いのに「あんたは若いからよく食べるでしょ」と言われ、苦笑いになりました。笑
20代ならいざ知らず、40代だしそんなに食べられないよと答えても、「でも私より若いじゃない」と言われるんですよね。(きっと末っ子あるあるだと思うんですが)
確かに相手よりは大幅に若く感じるかもしれない、でも私は世間的にはもういい中年女性なので、そんなわけないじゃん・・・と思うのですが、いつまでも「あの小さかった子」という印象がついてしまうのも無理ないと思うんです。
動物を育てたことがある方はわかると思うのですが、排泄の世話や食事のサポートがいる時代から見ていると、「あんな小さかったのに・・・」って思うことあるんですよね。
「まだミルクも少ししか飲めなくて吐いてたのに、こんなにたくさん食べれるようになったんだ。」とか、「姿が見えなくなると鳴いて探しに来てたのに」って成長が嬉しいような寂しいような気持ちになる。
きっと何かを育む心ってそういう気持ちを含んでいるんだと思うんです。
そんな愛おしい存在をどんな風に愛を伝えようかという時に、自分の愛されたようにしか愛せないとしたら。
親子の難しさってこういう部分なのかもしれないなぁと感じます。こんな風になってほしいという言葉でしか伝えないけれど、その奥の気持ちは「あなたが生きていく上で必要なことを全て注いであげたい」、そんな気持ちではないでしょうか?
その上で、対等に親を見つめる。
みいさんは30代。色々と働いて自分の能力や稼ぐ力などについても、地に足がついた状態での夢を描いていらっしゃる頃かもしれませんね。
20代ではまだ未来はたくさんあって、いろんな可能性があるけれど、わからないこともたくさんある。
そんな10年を過ごしてきた30代はもしかすると、何かを理解し諦めたりしながら、それでもここにはまだ希望があって、楽しみがあって、頑張りたいこともある。そんな年代を過ごしていらっしゃるかもしれません。
そんなみいさんが今のあなたのまま60代の男性として父親のことを理解してみようと思ってご相談くださったんだとしたら、まずどんなところから理解してあげたいと感じているのでしょうか?
まだご相談してくださっていた時は「自分に対しての態度の理由」が知りたかったと思うのですが、ここまで読んでみて改めて「この人はどんな人生で、どんな風に愛された人だったのか?」を理解してみようと思えたのではないでしょうか?
その状態でまず父親を理解するところから始めてみてください。
- どんな愛され方をしたのか?
- どんなことに関心があるのか?
- 子供達のことをどんな風に捉えているのか?
- 父親自身を父親はどう思っているのか?
それはもう娘として与えてもらう側の視点ではありません。対等に「相手を理解したい」という視点なんです。
そうやってみていくと、父親への理解が深まっていくだろうし、聞いてみたいということも出てくるかもしれません。それもコミュニケーションとして素敵なことだと思います。
その中でゆくゆくは「自分が娘として与えられるものはなんなのか?」を考えることができたら、もっともっとお二人の関係性は変わっていくだろうと思います。
- どうして馬鹿にするの?
ではなく、
- どんな愛され方をしたの?
という視点でぜひ父親の愛情表現を探してみてください。そしてたくさん見つけられたら、どんな風に伝えて欲しいのか、どう伝えてくれると嬉しいのか、お話しできると素敵ですね。応援しております。
欲しい欲しいと思っている時は、自分の愛され方に固執してしまっている状態。これ以外の愛はいらないと言っている状態です。しかし愛の形は人それぞれ。もっとたくさんの愛の形を知れば、その分受け取れる愛の形も増えますよね。たくさんの愛を見つけてくださいね。